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アルバム売りさん

アルバム売りさん

またあした

 カチャ。かぎをあける音がして、おじいさんが入ってきた。しわくちゃのズボンに
おきまりの茶色のエプロンをかけて、ちょっとこわい顔でやってくる。おじいさんはチェロ
づくりの名人で、昔は有名なチェリスト達のチェロをつくっていたんだって。年をとった今
は、小さな楽器店の、作業台ひとつのこの小さな作業所が、おじいさんの仕事場
だ。ぼく? ぼくはチェロだよ。おじいさんが今つくっているチェロ。
 ぼくが重たいなって感じると、おじいさんはそこをけずって軽くしてくれる。くすぐ
ったいところは、ちょっとまげてくれる。お昼になると、おじいさんは弁当をむっつり
だまって食べるんだけど、その目はずっとぼくにむいている。はずかしくなるくらいず
っとなんだ。そうして一日の終わりに、おじいさんはぼくをみがいて、「よし。また明日」と、
少しだけ笑う。おじいさんとすごすこんな静かな一日が大好きだ。
 でも、ぼくは知っている。ぼくが完成したら、おじいさんとはお別れだ。お客さんの
ところにつれて行かれる。そして今日がその日なんだ。きのうおじいさんが、いつもの
ように「よし。また明日」と言ったあと、もう一度ぼくをみがいてくれたからわかる。
おじいさんが、かぎを作業台においてぼくのうしろにすわった。ぼくはちょっときん
ちょうした。いつもよりもっとこわい顔をしたおじいさんが、せすじをのばして弓をぼ
くの弦におしあてた。体がジンとしびれたそのしゅんかん、ぼくはきいた。
「ヴォー」
作業台の上のかぎがふるえるほどの、大きくよくひびく音。大きいのに、静かな音だ
なと感じる。おじいさんとすごした毎日のような、なきそうなくらいあたたかい音だ。
 おじいさんが、満足そうに弓をおいて話し出した。
「お別れだな。おまえを注文したのはモーリスという昔の客でな。世界で一番のチェリ
ストさ。おまえは、むすこさんの十才の誕生日プレゼントだそうだ。彼は、さっきの音
より、もっとずっとよい音をだしてくれる。おまえはまったく、特別なチェロなのさ」
 さっきのよりよい音だって? モーリスという人に会うのが楽しみになってきたな。
でもねおじいさん、ぼくの最高の音は、やっぱりおじいさんにしか出せないよ。おじ
いさんのしわだらけの手は、ぼくを一番わかってくれているから。
ぼくはそうつたえたくて、弦をピンとはりつめた。
 おじいさんは、ぼくの弦を人さし指ではじくと、「よし」と、少しだけ笑った。  


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